国有林の林力増強計画 4

戦前は例えば一つの斜面においても4合目まではスギ、7合目まではヒノキ、8合目以上はアカマツといった具合に、適地適木主義というかその土地に適した樹種の選定が最も大切な技術として取り扱われました。


樹種の選定を一度間違えたら50年は取り返しがきかず、1ヘクタール当たり何百万円もの損失を被ることにもなるのですから当然のことでした。


・・・ところが戦後は、どうせ現場主任は何も知らないのだから、スギがよさそうなら沢から尾根まで全部スギと決めてしまおう・・・


例えば水平的に異樹種を植えると収穫時期がまちまちとなって搬出に困るから、単一樹種にすべきだといった指導まで行われたのだからたまりません。


中には、積雪が4メートル以上にもなる地帯の数百ヘクタールに及ぶブナの大原生林を皆伐して全面的にスギを造林している例もあります。


積雪3メートル以上の豪雪地帯の造林は無理なこととか、ブナの原生林ではおおむね人工造林は失敗するということは造林技術上の常識なのです。


また標高1000メートルを超えたところのミズナラ、ブナなどのすばらしい広葉樹林を皆伐してカラマツの造林を進めるなど、全く不成績あるいは価値の低下につながることをしているところが数多く見られるのです。


国有林の林力増強計画 3

特別経営事業に関する当時の書類を調べてみると、被害の実態とその対策が通達として残されています。


そこには見事な予防復旧の手段方法が述べられているのでした。


こうした真剣な取組みの造林が断絶することなく続いておれば、一斉大面積皆伐などは行われなかったでしょう。


また、それぞれの被害も大幅に軽減されていたことでしょう。


防風林とか区画伐採などがようやく実行に移されたのは大造林の中期以降のことです。


次に不成績造林地の続出についても、既に特別経営事業の申期以降に続出して問題となり、それらの対策も直ちに検討され、技術的指導に及んでいるのです。


第二次大造林期においてはそれをさらに上回って続出しています。


特別経営事業以後戦争に突入するまでの育林技術の研究指導は前記のとおり見事なものでした。


しかし、戦後の第二次大造林期には林野庁の上層部はただ林力増強による人工造林の拡大を命じるのみ。


技術的研究や失敗の原因追究などはすべて現場任せですから、らちがあかないですね。


国有林の林力増強計画 2

林野庁は、国有林の特別経営事業の大造林の末期から30年余りを経て、第二次の大造林に当面したのですが、不幸なことに直前10年余りは戦争による空白期間があったことで、こと造林技術についてはその幹部、職員は実際1年生ということなのです。


・・・することなすことすべて手探りの状態であった明治40年頃と変わりないのです。


造林事業そのものが鍬と鎌と鉈といった3種の神器による人海戦術以外に方法のない難儀な事業であり、その結果は10年ないし数十年後に現れるという近代産業では見当もつかない仕事なのです。


だからこそ造林事業は休むことなく連綿と続いてこそ調査研究の進展、事業の発展が期待できるものです。


20年、30年という空白をつくっては技術の維持増進は到底望み得ないでしょう。


さて、終戦後の2度目の大造林はどんな様子だったのでしょうか。


一つの流域について川下から川上に向かい全面的に皆伐し、引き続いて人工造林を進めるのですから、たちまち欠陥が現れます。


まずは寒害が全国的に大発生しました。


1回に何年分もの造林地に被害が出るのだから、大変なことです。


国有林の現場はもとより、国立の林業試験場をはじめ、都道府県の林業試験場も大慌てで、その対策に狂奔する有様でした。


・・・まさに泥縄式の勉強となったものです。

国有林の林力増強計画

今日は、国有林の林力増強計画の無謀性について。


天然林は永遠に新陳代謝しており、その林地の蓄積は変わりません。


つまり成長量は常にゼロということになります。


造林をすればすべてこれプラスの成長であり、しかも一般に針葉樹の造林樹種では広葉樹と違い全成長量の60~80%もが利用できるのです。


針葉樹の人工造林にしくはありません。


極端な話、今後は質よりも量が問題となる時代が来るとして、ヒノキより単位面積当たりの成長量に優れているアカマツ、カラマツの造林をすべきだというヒノキの排斥論まで飛び出したほどです。


こうしたことから、森林総面積の40%強までもという人口林化を目指す国有林の林力増強計画が策定されたのですから、大変なことになったものです。


人も入れないような奥地、高地の造林や、主な国立公園の大半は国有林ですが、これらの人工林化は困難または不可能です。


さらに岩石地、急斜地が多いため約48%が保安林であることからしても、生産第一主義の人工林化がいかに無謀なことであるか想像できるでしょう。

楽しい共同生活を送るために

あるゴルフ場でのことです。


よい当たりでもないのに「ナイス・ショット」。


グリーンに球がのっかっただけで「ナイス・オン」。


さらに短いパットを入れただけなのに「ナイス・イン」。


・・・「ナイス」の連発さんとプレーしました。


昨日や今日にゴルフを始めたわけでもないのに「冗談じゃない」と白けてしまったことがありますが、なにかの折「ナイス」さんからもらったゴルフ・マナー集を開いたら「スリー・ナイス」をつつしめ、とありました。


多分「ナイス」さんもその本を読んだことだろうに、まったく頭に入っていなかったようですね。


手許のエチケット読本にはこんなことが書いてありました。


「長い歴史の中から生まれたルールや表現の方法があります。


知っていて実行すれば難なく心のふれ合いが生まれるのに、知らなかったり、知っていても実行しなかったために、ふれ合いが生まれるまでに時間がかかったり、誤解が発生したという例は、私たちの周囲にあまりにも多いようです」。


・・・楽しい共同生活を送るためには、ぜひとも知っておかねばならない人生のルールがあるのです。


これは就職や経理 転職を考えている人にとっても重要なことなのです。


ヨーロッパの歴史「ユグノー戦争」その4

パリ市民をはじめ、旧教側は新王に反対したため、新王は「国家なき王」として各地を転戦せざるを得ませんでした。

国民の大多数を占めるカトリックに配慮して王自ら93年に旧教に改宗、翌94年にシャルトルで戴冠式を行なったのち、パリ入城を果たした。

こうして正式にブルボン朝が成立しました。

国内の旧教側を一貫して支援したスペインと講和した98年、「ナントの勅令」を発して新教徒に大幅な信教の自由を認めたから、ここにようやくユグノー戦争は終結した。

REM睡眠の発見

REM睡眠は、どのように発見されたのでしょうか?


フランスベッドで眠る被検者がREM期に陥った時を見はからって揺り起こし、


「今夢を見ましたか?」


・・・とたずねたところ、実に27回のうち20回まで「見ていた」という答を得たそうです。


さらに対照実験をして、REM期でない時に起こして、同様にたずねたところ、23回のうち19回までが「見なかった」という答を得ました。


それにカを得て彼らは実験をかさね、結局、REM期には人は80パーセントまで夢を見ていると結論しました。


・・・ところが面白いことに、同一の被検者をREM期にすぐ起こさずに、翌朝までぐっすり寝かせてから尋ねると、10人のうち9人までが全然夢を思い出せなかったのです。


ともかくこれで、私たちは夢を客観的に調べる確実な手がかりを初めて手に入れました。


これによって過去の夢に関するいろいろな仮定や想像が一つ一つ打ち破られ、また非常に面白い事実もたくさん見つかっていくのです。


しかしそれよりも先に、わたしたちは再び本筋の睡眠そのものの研究に立ち返らねばならないでしょう。

ヨーロッパの歴史「ユグノー戦争」その3

72年8月、母后は再びギーズ公家と結んで新教側貴族を一網打尽に殺害させる「サン=バルテルミーの虐殺」を引き起こした。

74年、シャルル九世が夫折して、弟アンリ三世が23歳で即位した。

彼はユグノーへの宥和策に出たが、新教側のナヴァール王アンリに加え、「旧教連盟」を組織したギーズ公アンリも王位をうかが窺って反国王派となり、「三アンリの戦い」という複雑な権力闘争となった。

88年にギーズ公アンリが王によって暗殺された翌年、今度は王がイエズス会士によって暗殺されてヴァロワ朝が断絶した。

そこでヴァロワ王女を妻としたナヴァール王アンリが、アンリ四世を称しました。

ヨーロッパの歴史「ユグノー戦争」その2

1559年7月、アンリニ世が不慮の事故で急死します。

後継はその長子でわずか15歳のフランソワニ世であったから、実権はロレーヌ地方の大貴族ギーズ公家に握られました。

ギーズ独裁のなかでのユグノー迫害は恐怖政治となったが、新王の母后でイタリアのメディチ家出身のカトリーヌ=ドゥ=メディシスは、ギーズ専横に反発して彼らを宮廷から逐った。

60年、フランソワニ世が夫折し、その弟シャルル九世が10歳で王位を継ぐと、母后が摂政となりました。

62年、シャンパーニュ地方ヴァシーでユグノーの大量虐殺がおこったのを契機に、ユグノー戦争が始まった。

反動、非寛容とさらなる狂信がこれに続きます。

ヨーロッパの歴史「ユグノー戦争」その1

フランスの新教徒は、いうまでもなくカルヴァン派です。

彼らは旧教側から「ユグノー」と呼ばれたが(その意味は不明)、実態は勤勉な中産階級で、国家権力に対する教会の独立を強調する戦闘的カルヴァン主義でもありました。

有能なアンリニ世(位1547~59)は、ドイツの新教徒を援助するかたわら、本国では新教徒への弾圧を強化しました。

一方、新教側でもモンモランシー家のコリニー提督や、スペインに隣接するナヴァール地方で王を称していたブルボン家など有力貴族がつきました。

こうしてヴァロワ王朝のもとで宗教内乱(ユグノー戦争 1562~98)が生じる。

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